彼を知らずにいられたのなら。





目を開く。
真っ先に心配そうな幾子の顔が視界に入り、十八は安堵の息を吐いた。
「十八。…大丈夫ですか、十八。」
そして十八と、名前を呼ばれることでより一層の安堵を得る。
自分は八城十八。それ以外のなにものでもないのだと。それを彼女も認めてくれているのだと。
(だから自分は*****なんてそんな名前じゃない。)

だんまりな十八を心配するように幾子が眉を寄せる。
「十八?」
「……すみません、…大丈夫、です。」
身体を起こそうとしてぐらりと世界が揺らぐ。
記憶の奥底から溢れるように流れ出した記憶が瞬間またフラッシュバックして、十八はたまらず苦痛に呻いた。
「十八!…まだ寝ていたほうがいいです。顔色が悪い。」
「いえ、起きていたほうが…まだ幾分、気分がいいです。」
強がりともとれる十八の言葉に幾子は逡巡し、次いでそっと身体を起こしやすいようにクッションを十八の背に宛がってやった。
小さく礼を言い、けれど言葉を続けられず十八は再びの沈黙をもって俯いた。


何と説明したらいいのか。いや、簡単じゃあないか。自分が何者か思い出したと。ただそれだけのこと。
けれど、…けれど、本当に?あれが、自分?
いつになく不安そうな幾子の視線に、何か言わなくてはと思うのに、思う端から霧散していく。

「…水とタオルを持ってきましょう。気分が悪ければ無理をせずに横になりなさい。」
「ッ、幾子さん、大丈夫です、大丈夫だから……その、」
席を立とうとする幾子を十八が引きとめる。幾子の腕を掴もうと伸ばした手が所在無さげに彷徨った。
「少しの間でいいんです。………ここに…いて、くれませんか。」
途切れ途切れの控えめな、けれど切実な懇願に幾子は柔らかく微笑み、上げかけた腰を下ろした。
今は独りになることが、何よりも恐ろしかった。ただ独りきりで静かな部屋にいたら、記憶の男に乗っ取られてしまう気がして。
幾子が席を外しそして戻ってきたら全く別の人間になっているのではないか。そんな懸念が十八を酷く苛んだ。
自分は八城十八。それ以外の何者でもない、はず、だった。あの魔女が嗤いさえしなければ。

「………幾子さん。」
「なんです?」
雨の音に飲み込まれる気がして、何とか気を紛らわせようと言葉を紡ぐ。
「私は。……。…八城十八、ですよね………。」
それは、限りなく自問に近い問いかけだった。ぽつりと雨だれのように落ちた十八の言葉を、幾子が優しく掬う。
そっと。壊れ物にでも触れるかのようにそっと、十八の頭を抱く。
「…そなたが何と言おうと。…私は八城十八以外の名で呼ぶ気にはなれませんがね。」
いい名が浮かんだものだと、我ながら気に入っているのですよ。そう付け加えて微かに笑う。
雨は少し小降りになってきたようだった。しとしとと窓の外を漆黒とともに彩る。
此処に繋いでくれる幾子の温もりが暖かく、心地よくて。十八はそっと、目を閉じた。

「ありがとう、ございます。…幾子さん。」



That's a dear





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あとがき。

玄雪さまリクエストで幾子さんと十八さんでした。
EP8ではこの二人が可愛くて仕方なかったのですが幾子さんの口調が難しくて詰みかけました恐ろしい
玄雪さまお待たせいたしました!リクエストどうもありがとうございましたー!

(2011.05.07)





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